昭和54年12月17日 朝の御理解



 御理解 第65節
 「日柄方位は見るにおよばぬ。不信作事は、使い勝手のよいのが、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不詳のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。」

 今日は、私共の父の5年の式年祭を、午後から奉仕させて頂きたいと思うておりますが。その事を、今日神様にお願いを申させて頂いておりましたら、信心のもう驚きと喜びというのを、きれいな表装した軸を頂きました。もう例えば、まぁ父の生涯というよりも、合楽に参りまして、まぁ椛目合楽を通して信心のおかげで、もうそれこそもう難儀な中からおかげを頂いて、とても合楽に参りましてからなおさらの事でしたが、もう毎日毎日が信心の喜びと驚きではなかっただろうかとこう思うんです。
 もう88のお祝いを致しますちょっと前には、もう難しかろうかというように、大変具合が悪うございましたけれども。やはりおかげを頂いて、もうあのお祝いをする頃にはおかげを頂いて、もうそれこそもう喜びいっぱいで、お神酒も頂くし歌をひとつ歌うというように元気になって。それから5年また生き延びのおかげを頂いております。しかも健康で。ちょうど亡くなります93歳で亡くなりましたが。93歳のちょうど報徳祭を終わらせて頂いて、そしてその翌朝という事になります。
 久富先生と繁雄さんが、晩遅うまでおられましたから、帰りには必ず両親のところへ行ってから挨拶して帰られるんです。もちろん休んではおりましたけれども、おじいちゃまもう今日の報徳祭はもう大したお祭りでしたと言うて、あのう挨拶をされたら大変に喜んで、どうぞ用心して帰って下さいち言うちから、挨拶するくらいだった。どこが痛いの痒いのって腑はなかった。ただあのまっ起きて休んじゃおられ、お祭りを拝む事は出来ませんでしたけれどもそういうことでした。
 そしてその夜中に少し、ちょうど家内がお知らせを頂いて、あの父の部屋に参りましたら、大変こうちょっとこうちょっと容態が違う。それからすぐそこの平塚さんにお出で頂いて見てもらったら、まぁだ今日は2、3日という事じゃありませんと言うて帰られたと。けれどもあのもうそのあれでしたから、それこそもう大往生というとあんなもんじゃろうかと、こう思うのですけれどもね。ちょうど綾部さんから特別に相撲の招待を受けて。久富先生と二人で福岡の相撲はあれは何十月ですか。11月でしょ。
 から亡くなる前の前の月には福岡まで行ってるんですよね、あれはお相撲見に。好きな相撲、まっ大変好きな相撲でしたから。ほれでもう相撲が始まると、もう自分で新聞と手帳をダーッと、何を書いておるのか知りませんけれども、書いておりました。88歳の時に、皆さんに記念品を差し上げたり、何か白扇を皆に。それで父がまぁ歌とも何ともつきませんけれども、まぁ自分の実感だろうと思うんですけれども、「有り難しただ有り難し有り難し、わが身一人はもとの身にして」というまぁ歌。
 意味がわからんのですけれどもね、どういうことだろうかと。ただ有り難い有り難いは今言うわかるんですね、毎日毎日がもう驚きと言うなら神様の働きっちゃもう恐れ入ってしまうね。ばばさんという事じゃなかったかと思うんです毎日が、両親がまっ話すならば。だからその有り難し有り難し、ただ有り難しは分かるんだけれども、ならわが身一人はもとの身にしてという意味がわからんのですけども。
 兄弟6人おります男兄弟三人、女兄弟3人で、上から3人が女でそれから男としては私の父が長男で、それからあの大坪重蔵の父親が2番目で、それからあの荒木に養子に行っております、あのような家の大工をしておりました、山口粂蔵というのが三番目で、なら3人兄弟で。その兄弟達が皆んな亡くなってしまって、自分だけが残っておるというような意味じゃなかろうかと思うんです。
 しかも健康で毎日この有り難い、勿体無いで過ごさせて頂くということが、本当にそのもとの身にしてという事は、まっ健康という意味じゃないだろうかと、今にして思うのですけれども。そういう歌を白扇に書きましたから、それを私が色紙に書いて、たしか50日祭か百日祭の時に、御信者の皆さんにも差し上げたと記憶しておりますが。私はこの御教えを頂かせて頂きまして、それこそもう日々が天赦日としての頂き方。日柄もなからなければ方位もない。
 もう自由無碍の世界でしかも日々を、天赦日神様に許された日として生活が出ける。それが金光教信者の私は生き方、生き様でなからなければならんと思うですね。そこで私が思わせてもらうのにですね、自分が相撲に行こう、自分がどうしようと例えば父の場合であるなら。今日はいっちょあればしてくれ、今日はいっちょあれば食べてみろうかではなくて、毎日毎日に起こって来るその食膳にある、それをただあぁ勿体無い有り難い。もうとにかくあの両親の部屋を皆が極楽部屋と言うておりましたが。
 もう夏は涼しく、そして冬は温室のように暖かい部屋でございました。ですから冷暖房してございますけれども、使いませんのです好かんち言うてから。もう冬でもあのタドンの火鉢を一つ入っとれば、もうそれでそれこそあの温室のように暖かい部屋でしたから。もうそれこそ、まぁあちらへ皆さんが挨拶に行かれて、甘い物が好きな方には、あのお茶を入れてから甘い物を出す。辛い方の好きな人はちょっと先生と言うてから、久富先生なんか、だからちょいちょいやっぱ行きよんなさった訳たいの。
 あるとあのちゃぶ台についてから、ほら出すわけ。もうそれこそ甘な辛なが、もうそれこそもう何か百貨爛漫の中に日々を、それこそ痛いもなからなければ痒いもない。これはもう両親ながらがそうでした。もう両親ながら本当に腰が痛いの、肩がこるのと言った様な事を言うて、言うた事がございませんでした。本当にあの親孝行をさせて頂くという事は自らがさすったり、自らが息子が例えばしてこうあげるというのじゃなくて、神様のおかげでというのでなからなければ、本当の親孝行じゃないと思うですね。
 はぁ毎日肩を揉んでやりました。毎日そのこうしてあげました、あぁしてあげましたじゃなくて。それが私の言うなら信心によって、両親に神様があの下さるおかげ。言うならばもう日々が許された日であるという事なんです。家の息子がしてくれたではなくて、神様のおかげでと言うのです。そこでならここでは私が申しますように、楽をしようと思いなさんな。よしそりゃ楽をしてもです、その楽というものは、あぁ今日はお芝居を見て面白かった、相撲を見て面白かったというだけではなくてね。
 その許されて思いもかけない、そこに許されてというのであって、いわば驚きと喜びというのが伴うのじゃないでしょうか。神様のおかげでということ。しかも日々が天赦日である許されての今日。そういう私は頂き方の出けれる信心を頂きたい。今日のお祭りを孫達ばっかりで奉仕する事にしております。若先生が祭主それから、幹三郎が副祭主。それから栄四郎と直子がしどり、というような風に、まぁ思うております。光昭は樂の方がございますから。
 まぁそういうお祭りになるだろうと思いますけれども、本当に御道の教師に孫達が全部お引き立てを頂いておると言う様な事は、もうちょっと珍しい話じゃないだろうかと、こう思います。そういう言うならばおかげを頂いて、御霊の世界においても、やはりこの通りのいや生前おかげを頂いておった通りの、言うならば極楽部屋というのが、本当の合楽部屋でおかげを頂いておるだろうという風に、思わずにはおられません。
 もうそれこそ報徳祭の有り難い、勿体無いのお広前全体が喜びで満ち溢れるような。そしてそれを聞かせて頂いて、今日の報徳祭大したお祭りでしたと。それを大変喜んで数時間後に亡くなっております。これは母の場合もそれが言えるんですけども、今日は特にそうした父の五年の式年を仕えさせて頂くのに当たって、お礼を申させて頂きましたら信心の喜びと驚きという事を。言うならそれが綺麗にですね、そのもうそれこそ見事な表装がしてあったと言う事は、おかげを頂いておるという事だと思いました。
 もう言うなら完璧に信心の喜びと驚きで過ごしたと。あれがただ書いてあるのだけならね、まだそれを人に見てもらうと言った様な事じゃないけれども、まぁ言うならば人に見てもらっても拝んでもらっても、言うならばまっ見本手本と言われるようなものではなかろうか。日々を言うならば天赦日として過ごさせて頂いたであろうと思う、いわば父の生涯であったということ。それは以前はそうじゃないでしょうけれども、私が本気で信心させて頂くようになって。
 椛目合楽を通してそういう雰囲気の中で、しかも93という高齢で、しかも痛い痒いもなしに、その前の11月の12月に亡くなる、12月の17日に亡くなって、11月の福岡までも、自分の好きな相撲見物でもやらせて頂くと、言う様なおかげを頂いておったということ。本当にまぁ勿体無いと思う事と同時にです、どうでも一つ皆さん、日々が天赦日である、許されての今日というおかげの実感。それがそのまま信心の喜びと驚きという事になるのじゃないでしょうか。
   どうぞ。